「真に受けすぎる」という社会病理

 真に受けるという言葉があります。「外部からの情報を重く受け止め、それに準じた行動を選択すること」を表現するものです。現代社会は情報社会とも言われますが、情報に振り回されて「真に受けすぎる」という社会病理があるかもしれません。

 行動するにあたっての判断材料として、情報は非常に有益です。しかし、現代社会における情報は、時として情報と行動の一元化、すなわち誘導的側面を強くしています。実際の情報やデータの「ある側面だけ」を切り取り、都合よく編集•発表されることは昔からありましたが、現在は映像と音声を活用し、五感によりダイレクトに訴えかける方法がしばしば取られています。

 メディアを大きく変えたのは「写真の登場」と言われており、写真を伴うプロパガンダが第一次•第二次世界大戦においては各国に活用されてきましたが、現代社会の表現媒体は情報量の面でも、脳に訴える科学的側面でもそれを凌駕しています。一つの見方が全ての見方であるかのように、誤解してしまう人がいても無理は無いでしょう。

 しかし。

 「真に受けすぎる」ことで、どれだけの悲劇が起きてきたでしょうか。

 少しだけ俯瞰的に見れば気づけたはずのことが、情報の多さに圧倒され、視野が狭くなることで「もうこれしか方法がない」という悲観主義に同調しやすくなる。情報自体の質が悲観的になればなるほど、より悲観的になる。悪循環です。

 繰り返しますが、情報は有益です。有益なツール(道具)なのです。

 今ここで大事なのは、情報を用いて「使われる側」になるのか、「自分を生きるために、主体的に情報を使う」のかという選択。

 地球上には様々な問題に見えることがありますが、今自分の目の前で起きていることに自分がどう対処するのか。選択し、行動する主体は自分です。

 地球のアセンションが進み、周波数がさらに大きく変化する今、情報の受け取り幅が大幅に増え、心揺れ動くことが増えるかもしれません(特にこの8月9月)。このような時こそ、「情報の取捨選択権は自分にある」と、肝に銘じたいですね。

「真に受ける」を「間に受ける」、すなわち自分のスペースに入れ込むこととイコールにしないこと。

これが、大事かもしれません。

いつもお読みいただき、ありがとうございます。

 本日も大胆な1日をお過ごしください。

 POP拝

あたらしい。

コメントを残す

ツールバーへスキップ