「感染呪術」について。

 いつもブログ・ラジオでお伝えしている主なトピックの中に、「気づいたことは変えられる」(=気付かないと変えられない)というエナジーの法則があります。現代スピリチュアルの礎は、「暦学」「天文学」「植物学」「鉱物学」「宗教」「哲学」など様々なジャンルを横断した法則性。すなわち、この地球で観察されてきた普遍的なエネルギーの法則です。

 研究と実践の中で、長い目で見て実態にそぐわないものは、その都度アップデートされて来ました。一方、科学的な検証は時を待たねばならなかったけれど、「肌感覚でわかる」が故に、伝えられて来たものがあります。その一つが、呪術なのではないでしょうか。

 呪術という響きは、なんとも重々しいものがあります。しかし、この世の中のコントロールを作り出すツールとして長年使用されて来たのは事実です。呪術を非合理・非科学の名の下に「無かったことにする」のは、現時点では時期尚早かも知れません。

 この地球上では「気づいたことのみが変えられる」としたら、まずは存在に気づく。その上で、様々な「存在」と自分はどう付き合っていきたいのか、Original Energyで読み解く。そんな姿勢が、あたらしい時代のサバイバルのようです。

 本日は、サバイバルのガイドブックの一つをご紹介します。


初版 金枝篇 (全2巻)

J.G.フレイザー著 吉川信翻訳

ちくま学芸文庫刊


 著者のジェームス・フレイザーは19世紀末から20世紀初頭の文化人類学者です。

 著書「金枝篇」では、原始宗教や儀礼、神話、習慣を比較研究しており、ヨーロッパ、アジア、アフリカとその範囲は多岐に渡ります。彼が半生をかけて綴った壮大な作品です。

 本作の第二節「太古の人間と超自然的なるもの」(ちくま学芸文庫版の上巻)に、共感呪術の話が登場します。共感呪術には「感染呪術」「類感呪術」があると、フレイザーは述べます。

 感染呪術は、人形などの呪具を用いて呪術をかける「類感呪術」(類似したものが影響を与え合うという考え。日本で言えば丑の刻参りの藁人形や、名越の祓に使用するヒトカタ)と並んで、人類初期の呪術であると言及しています。

 類感呪術は相似を通じて強くイメージングしていくものですが、感染魔術は「一度接触した相手は、遠く離れても相互に作用する」という思想に基づいており、フレイザーはこれを「接触の法則」と呼びます。感染呪術においては、アイテムを使う場合も相似というよりはさらに具体的、着衣や持ち物、爪、髪の毛、歯…などを使用します。

 類感呪術も感染呪術も、「イメージングとつながりを強め、認知を向上することにより意識を向ける」という脳の働きを十分に活用しているのではないでしょうか。

 現代社会は、科学が十二分に発達した社会であり、科学によって証明できないものは何もない、という見方もあります。しかしここに横たわる大きな矛盾。科学によって証明できないものが何もないなら、研究など、とうの昔に終わっているはずなのです。証明できない事象が「ある」と認知されているからこそ、研究は続いているのです。科学(化学)は、未だ未完のジャンルです。裏を返せば、呪術を「証明できないから、ありえない」というのは早計ではないでしょうか。

 我々の身の回りには、気づけば「イメージングとつながりを強めるアイテム」が激増しています。このブログをお読みいただいているPCや各種デバイスは、その代表と言えます。ただ情報をプレビューするだけではなく、乗り換え案内やお財布ケータイ、タイマー、ボイスレコーダーなど様々な機能が存在し、結果的にそこにイメージングとつながりを強める時間は増えています。

 デバイス自体に(そして、あらゆるものに)善悪はありません。そこからどのような情報にイメージングとつながりを強めることを「自分が選んでいるのか」気づき、見ていく必要があります。


情報に感染するということが存在する。

それが、現在の感染呪術である。


 フレイザーが現代社会に生きていたら、どのような論文を書いたでしょうか。フレイザーに学べるのは、観察者の視点です。興味と可能性を持ちつつ、冷静に観察する視点。

 一般的な疾病で「感染」を考えるとき、そこには免疫が大きく関係します。自分の心身の恒常性をどれだけのキャパシティで保てるかが、生命力にダイレクトに関係するでしょう。

 大きくエナジーも、情報も、動く時です。

 「その情報、その感情、そのエナジー」は自分のものか?感染したものか?

 体の免疫を培うのはもちろん、心と魂の免疫にお手当てしていくことも、大切にしていきたいですね。

 いつもお読みいただき、ありがとうございます。

 本日も健康な1日をお過ごしください。

 POP拝


POPよりひとこと

感染呪術の予防手段は「Original Energy(元氣)」で生きることです。

あたらしい。

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